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東京地方裁判所 昭和31年(レ)166号 判決

控訴人 戴金清

被控訴人 大森幸

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、

被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張及び証拠の提出、認否は、双方代理人がそれぞれ左の通り陳述したほか、原判決摘示の通りであるからこれを引用する。

被控訴代理人の陳述

(一)  本案前の主張。控訴代理人は控訴人が上海大光明美髪庁なる商号で行う営業の支配人の資格で控訴人を代理するものであるが、本件訴訟は控訴人の営業に関するものではないから控訴代理人は本件訴訟の訴訟代理人となる適格を欠くものである。もし仮に本件訴訟が控訴人の営業に関するものであるとしても、その支配人登記は本件訴提起後の昭和三十年七月九日になされたものであり、しかも登記された控訴人の事務所は被控訴人の所有家屋であつて、現在現実には営業していないものであるから控訴人の支配人は本件訴訟につき控訴人の代理人となることはできない。

(二)  本案の主張。本件執行文は、東京簡易裁判所昭和三十年(イ)第一五一号建物明渡和解事件の和解調書和解条項第六項に基いて付与せられたものであるが、同条項には「本建物の賃貸借については右各項に定むるほか、昭和二十八年十月二十八日東京法務局所属公証人浜田宗四郎作成に係る第六千二百二十八号建物賃貸借公正証書の定むるところによること」と記載してあるのみで、被控訴人が和解の相手方に対しいかなる債務を負担しているかの具体的事実についてなんらの記載も存しない。従つて本件和解調書は債務名義たりえないものであつて、これの正本に執行文を付与することは違法である。

控訴代理人の陳述

(一)  被控訴人の本案前の主張に対する答弁。被控訴人の主張事実を否認する。本件訴訟は控訴人の営業の残務処理である。

(二)  本案の答弁。本件和解調書の和解条項第六項の記載により、昭和二十八年十月二十八日東京法務局所属公証人浜田宗四郎作成にかかる第六千二百二十八号建物賃貸借公正証書記載の契約条項は、本件和解調書に再録されるまでもなくその内容となり、和解調書自体のうちに記載せられたのと全く同一の効力を有することとなるのであり、且つこの公正証書には具体的な被控訴人の給付義務が掲記されているのであるから本件和解調書は債務名義としてなんら欠けるところはない。

理由

一、被控訴人の本案前の主張について考える。支配人の代理権限は、必らずしも営業主の営業行為自体のみに隈られるものではなく、ひろく営業のためにする行為を含み、更に営業財産の清算、残務の結了等、営業の後仕末に関する行為にも及ぶものと解すべきであるところ、控訴人の提出した支配人登記簿謄本、成立に争のない甲第五号証、同乙第六号証を綜合すれば、控訴代理人は控訴人が東京都中央区銀座西六丁目二番地に於て上海大光明美髪庁なる商号を用いてなす営業の支配人であると認められ、本件敷金返還請求権はそれがもし存在するものとすればこの営業上の財産を構成するものと認められるので、被控訴人主張のように現在現実に控訴人の営業が行われていないものとしても、本件訴訟は少くとも営業の残務整理に関するものであろうことは推認に難くなく、従つて控訴代理人は本件訴訟につき控訴人を代理する権限を有するものと考えられるから被控訴人のこの点の主張は理由がない。

二、東京簡易裁判所が昭和三十年四月十四日、申立人控訴人と相手方有限会社大光明美髪庁ほか一名間の昭和三十年(イ)第一五一号建物明渡和解事件の和解調書正本に和解条項第六項に基く東京法務局所属公証人浜田宗四郎作成第六千二百二十八号、建物賃貸借公正証書第三条第三項の敷金返還義務について、条件成就の事実及び承継原因事実が証明せられたとして申立人被控訴人に対して強制執行のため相手方会社の承継人控訴人に執行文を付与したことは当事者間に争がない。

よつて本件和解調書が控訴人の被控訴人に対する敷金返還請求権について適法な債務名義たりうるか否かについて考える。

(一)  およそ債務名義は、執行機関をしてその行使すべき執行権の内容及び範囲を一義的に確知せしめ、強制執行を実施するに当り、あれこれ迷わしめ、又は無用な紛争を生ぜしめることのないよう、実現されるべき給付義務の種類、内容、範囲をそれ自体のうちに単独で、或は執行文と相合して明確且つ具体的に示していることを必要とし、この要件を欠くときは債務名義たることを得ず、他の文書又は理論等を以てその内容を補充することを許さないものであることは原判決の指摘する通りである。然しながら、債務名義それ自体のうちに於て明らかでなければならないということは、必らずしも形式的に債務名義たる文書の物体が単一であることを要するものとみるべきではなく、文書の記載に於てその文書に直接再録せられたのと実質的に同一とみられる程度に明確、具体的に特定して他の文書を引用しているような場合は、なんら債務名義の具体性ないし明確性を害するものではなく、又これを許さないものとする規定もないのであるから引用せられた他の文書の記載は即ちこの文書の内容となるものとみて、両文書が合一して一つの債務名義となることを得るものと解すべきである。本件の場合、前記執行文の付与は、和解条項第六項に基くというのであるが、成立に争のない甲第一号証中の和解条項を査閲すると、その第六項には「本件建物の賃貸借については右各項に定むる外、昭和二十八年十月二十八日東京法務局所属公証人浜田宗四郎作成に係る第六千二百二十八号建物賃貸借公正証書の定むるところによること」と記載してあるのであつて、引用せられた公正証書の特定性に於て少しも欠けるところはなく、これはあたかも、文書の記載の煩雑に亘ることを避けるため、別紙を設けてこれに文書の一部を記載し、割印を施して形式的に文書の単一性を保持しようとする技術的処理の方法と実質的にはなんらの相違もないものと考えられ、引用せられた公正証書の記載は再録せられるまでもなく直ちに和解調書の内容をなすものと認められるのであつて、引用せられた公正証書に於て債務名義たるに適する程度に明確、具体的に給付義務を定めてあるものとすれば、本件和解調書はこの公正証書と合一して適法な債務名義たることを得るものと判断するのを相当と考える。そうだとすれば、単に和解条項第六項に直接具体的な給付義務を定めず、これを定める公正証書の記載を引用したとの一事を認定したのみで直ちに本件和解調書は債務名義たりえないものと断定し、進んで公正証書にいかなる給付義務の記載があるのであるかについて審理することなく請求を認容した原判決は理由に於て不備があるものと言わねばならない。

(二)  よつて、甲第一号証中の建物賃貸借公正証書を査閲すると、その第三条に、「乙(有限会社大光明美髪庁)は甲(被控訴人)に対し敷金として金百二十万円也を差入れるものとする。尚契約の月から十ケ月後に敷金二十万円也を追加して差入れるものとする。敷金は無利息とし、賃貸借終了後甲は乙が賃借物の明渡と同時に精算の上これを返還するものとする」との記載がある。この記載によれば、有限会社大光明美髪庁は被控訴人に対し、敷金として合計金百四十万円の金員を差入れる債務を負担し、その差入があつたときは、被控訴人は賃貸借終了後建物明渡と同時に、前記会社が被控訴人に対して当該賃貸借に関し負担する一切の債務金額を差入れられた金額から控除して前記会社に返還する義務を負担したものであることが認められる。然しながら、この記載のみによつては前記会社が現実に被控訴人に差入れた敷金の金額及び、これから控除されるべき金額が判明せず同公正証書を精査しても他にこれを明示する記載は存しないので、前記会社の被控訴人に対する敷金返還請求権の存否、数額は同公正証書によつては不明であり、従つてこれを引用する本件和解調書は具体的な給付義務を明示しないものとして敷金返還請求権については結局債務名義たることを得ないものと判断せざるをえない。

三、しからば、東京簡易裁判所が、本件和解調書を債務名義として、和解の相手方会社の承継人、控訴人に執行文を付与したことは爾余の点を判断するまでもなく失当であるから、被控訴人の本訴請求は正当として認容すべく、これと結論を同じくする原判決は結果に於て正当であり、本件控訴は理由がないので民事訴訟法第三百八十四条第二項、第九十五条、第八十九条の各規定を適用して主文の通り判決することとした。

(裁判官 藤井経雄 真田禎一 西塚静子)

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